tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

役立たずの恋

 ふっと思った。いま自分が死んでも、客観的にはそれで終わりだと。悲しむ人や喜ぶ人がいても、彼らの無知蒙昧のもとで悲しんだり喜んだりするだけだと。大勢としてはひとりの人が死んだということで終わりだと。ふっと思った。

 昨日荒木経惟の「センチメンタルな旅・冬の旅」を読んだ。あそこではどうしても個人的であるしかない妻の死が表現されていた。孤独を最も強く感じさせるもののひとつである妻の死について。

 その後の荒木経惟がまた社会に帰っていったところの論理が僕にはわからないと思った。中原中也は自殺するより方法がないと落ち込んでいるが、そのほうがずっと良くわかると思った。いや、もちろんこの言い方が「良くない」のは分かっているが、今の僕の実感では、実行するにしてもしないにしても、自殺するより他がないという言い方が良くわかると思うのだ。

 僕はしばしば、日常生活というやつは、会話の水準が浅すぎると思ってきた。会話の水準。どうしてもっと深い水準で会話できないのか。それは二人きりで話してみても同じように深まることができないものだ。それはひとつの根源的な要求だった。恋人は君を救うことができない。会話の水準は対自的に深まることしかできなかった。それは精神分析学が示しているところのものだ。会話の機能は目の前にいる人間への性的欲望を憐憫の形に仕舞うところにあってそれ以外の何かではありえないんじゃないか。

 同時に性というものの剥き出しの本質性も際立ってきた。金を明示的に媒介とする風俗店では本質的であれない性というものだ。つまり自分の理想として想定される他者像(それは身体像へ凝集するがイメージによる多量の変形を受ける)を持つ他者の欲望を幻想的にでも受けるということだ。そういった特権的他者に欲望されることの欲望。それはどんなロマンティシズムをも力づくで押さえつける太い腕だ。

 だから僕の要求はそこで明らかになった。僕が性的他者に、性的に欲望されるということ。それは明らかすぎるほど明らかだ。ロマンティシズムがそれを否認しようとしてももう遅い。だがそれは実際あまりに億劫だ。「僕はそんなものならもう欲する気はない」。そんなことが目的なら「僕はもう君に会いたくない」。

 僕が表層的には否定しながら、しかし核心に触れていると信じて書いたあの言葉、「人間関係は性関係に近づくほど本質的だ」。この言葉がこれだけ鋭いのに、かろうじて詩を生き残らせているのは、見れば分かるように、この言葉は曖昧だからだ。

 性。それは要求の尖端を示す。だからそれは一見実生活に無用なものの尖端を示している。その尾はある信仰と呼ぶべき、無根拠の前提、他者へ主体性を見るところの、共同感である。連帯感である。自分は誰かにとって何者かであるという無意識の期待である。それは日常的なほんのささいな交流の中で、どうしてここまで強固に支えられるかという謎である。それは幻想だよと、独りの帰り道で僕は呟く。僕は呟きながら、まだそれを信じている。この信仰の根拠は一体どこにあるのだろうか?神から脱そうともがくキリスト教徒のようだ。

 「そんなことは初めからわかっていた」分かっていただけではいけなかったこと。それはなぜなのか。