tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

恋と労働の主題

 僕が書きたいことはおおまかに三つ、「何もすることがないこと」「何かをすることが辛いこと」そして「恋」。それ以外には大して書きたいことがなくて、振り返ってみれば僕は昔からこの主題に固執して書き続けてきた。

 詩を書き始めたころの

 「生きていることに

  同化することが

  死んでいくことに

  同化することが

  とても恋しくなってくる」

 という願望は、恋についての始原的な願望を表現している。僕にとって恋とはある他者との関係であるというよりも、「他者と他者」という二者関係の像へ参入しようとすることである。だがこの発想においては、魅力的な他者として現れる異性像の重要性、それについて全くというわけではないがうまく語ることができない。他者像というものは必然的にその身体像と結び付けられてしまう。そこへ参入しようとするとき、自分の身体像というある種の不可能な想像をある他者の身体像へ代償させる、そこに他者の身体像の重要性が出てくる。この説明の不十分さについて言っているわけだ。今回はここまでにするが。

 「あてもなく歩いていたわけじゃなくて

  あてもなく歩いている僕ならば

  世界の完成を崩すことはないと思っていた」

 という罪悪感に寄った表現については、何かをすることが辛いことの表現であると言える。何もすることがないと感じることと、何もしたくないと感じることとは対立関係にあるように見えるのに、とても似た領域で起こっている。

 「自ら無効と呼ぶ反復行為を結局は繰り返すことが僕の精神的生活の全てだった。」

 何かがしたい、でもすることがない。何もしたくない、でもしなければいけない。その無力さの葛藤は恋における洗濯機の渦に巻き込まれたというような無力さとは異質な葛藤であると言わざるを得ない。恋というのは何もすることがないということの否定であり、同時に何もしたくないということの否定でもある。その独自な構造は生活を常に動的にする。その独自の価値秩序。それをゲームと呼ばないならそれは一体なんだろう。

 労働が不十分な能力を指し示すとき、恋は過剰な能力の受け手になっている。技術が進歩すれば必ず消滅する労働。労働が消滅すれば唯一のものとして残るほかがない恋。