tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

お金儲けへの執着がある。

 今朝は朝6時に起きて猫の世話をしたあと、また午前9時まで寝ていた。昨晩は0時にベッドにはいってから眠るまで、30分ほど時間がかかった。昼寝をしすぎていたから仕方のないことだった。

 朝の間は、「霧の中のゴリラ」の最後の50ページほどを読んでいた。ふつうの観察記録とはまったく違った展開のドラマで、著者の人生そのものの記録だった。

 昼飯に餅を4つ、マーガリンと醤油、白だし、みりんで煮詰めたものを食べた。シャワーを浴びて、午後に歯医者に行った。何もしないので痛むことがあるので、C3だと思っていたけれど、C2が二、三本あるということだった。C2でも、甘いものが染みたりすることはあるらしい。

 ニート生活の大半は一週間に一回くらいしか歯を磨かなかった。鬱が酷い時期には数ヶ月磨かなかったこともあった。最近は毎晩ちゃんと歯を磨いている。毎日飲んでいた砂糖たっぷり入りの紅茶も先月末からやめた。何回かかるかわからないが、毎週の歯医者通いで虫歯が完治したらいいなあと思っている。

 

 

 瞑想をしようと思い座りながらも、眠らないように目をあけていた。目で一点をじっと見つめていると、これは自己催眠に他ならないじゃないかと今更気がついた。高校生時代、催眠というものに強い興味があり、幾つかの本を読んでいた。あるいは自律神経訓練法や、フォーカシングと言った技法が頭の中に浮かんできた。

 人間の心が最も落ち着く段階として、屈服という状態があげられる。何か強いものに押さえつけられてしまう状態が、不思議な安心をもたらす。けして優越ではない。優越は悦びと同じくらい、不安をもたらすものだから。そして催眠というものは、屈服ということと非常に親しい。それは乳児期や幼児期に抱いていた、両親との関係に少し近いのかもしれない。

 その、屈服というものが人間に『絶頂的な安心』をもたらすということを、僕はまだきちんと理解できてない。そのことについてもし、ちゃんとしたことが言えれば、かなり進歩したということができると思っている。

 いまこの段階でひとつ言えることがあるとするなら、願望がなくならない限り、屈服の悦び、というよりも、屈服への願望、マゾヒズムはなくならないということだ。

  マゾヒズムにおける屈服という状態は、瞬間的には、たしかに救われるものなのだ。でも、持続的には、それは非常に苦しいのだ。屈服とは、苦しみの道なのだ。そして願望が残る限り、屈服への願望は、必ず残るのだ・・・。

 

 

 ふいに、作曲家のジェズアルドのことを思い出した。

 ヨハン・ゼバスティアン・バッハよりも100年早く生まれた彼の作る音楽は、奇態で、奇妙で、いたましい。なのに、美しい。浮気していた妻と間男を殺害し、その罪の意識に苦しめられ続けた人生。専用の使用人を雇い、自分のことを鞭打たせていたという。彼は晩年、ミゼレーレ(神よ、我を憐れみたまえ)という曲を作った。

  語るような単旋律の聖歌と、ポリフォニーの聖歌とが代わる代わる繰り返される、退屈な曲で、退屈さのなかに瞑想的な美しさが現れてくる。何もかもを諦めたかのような不思議な心地。尋常でない和声の豊かさが魅力のこの作曲家にとって、この曲は代表曲でも何でもない、ただ、異質な曲として、妙に胸をうつのだ。

 

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 今日はマゾヒズムについて書き始めてしまったくらいだから、 歯医者から帰った後の数時間、すこし気分が落ち込んでいる、不安のなかにあった。前とは違って、その状態に気づいて観察できただけ、ひどく落ち込むことはなく済んだけれど、ちょっと自暴自棄な心が顔を覗かせていた。

 特にお金儲けについてのことになると、未だにまだ、心が落ち着かず、もやもやとしてしまうことに気がつく。大儲けしている人を見ると、自分がそうなれない事実に割り切れない思いを抱いてしまう。それも、今の大きな課題になっている。

 午後八時頃、晩飯に、ししゃも、にんじん、かぼちゃ、ピーマンの天ぷらをそれぞれ一つずつ。ささかまぼこ一切れ、それに親子丼と蕎麦を食べた。

 ここ三日ほど寝るのが遅くなっている。毎日日付が変わるまでには寝たい。午前0時半ごろにベッドに向かって、寝た。