tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

図書館に行って、我を忘れて。

 今朝は朝の6時に起きた。昨日の夜は結局午前1時過ぎくらいまで眠れなかったから、それほど睡眠時間は取れなかった。でも、こういう日も大切だと思って寝足すのはやめておいた。朝起きて猫の世話をしたあと、つげ義春の「無能の人・日の戯れ」を読んだ。貧窮と受け身の姿勢をテーマにした漫画の作品集で、定期的に読み返している。

 午前9時から、大谷翔平選手が出場するMLB ホームランダービーを見ていた。大谷選手は残念ながら初戦敗退。不確実、無常だから仕方ないことだ。大谷選手は悔しそうだったけど、楽しそうでもあった。

  午前11時から、片道40分の図書館へ向かった。今回は少なめの5冊を借りるだけ。二週間で七冊くらいをゆっくり読むくらいで良いのかな、と思っている。

 

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 今日は原始仏教について短くまとめた文章を、メモ代わりに書いてみようと思う。

 

 原始仏教には実践的な核と、思想的な核とが別々にある。

 実践的な核は、「戒・定・慧」と呼ばれるもので、思想的な核は「無常・苦・無我」と呼ばれるものだ。

戒・定・慧

 というのは、行動を律するということで、具体的には、何かをやろうと思っても、やらないということにある。最低限のことはやるが、基本的に仏教の本質は、悪い行為をしないということにある。善行をするのも勝手だが、しなくてもいいよ、というのが仏教の姿勢だと思っている。というのも、人と人が支え合って行きていく世の中に対して、まず自分の世話をしなさい、ということを、釈迦はあえて強調したからだ。原始仏教の発想にいわせれば、人の世話をする、つまり社会の役に立つなどということは、自分の心をきちんと正してからすればいいことなのだ。

 というのは、瞑想をして心を落ち着けるということで、明鏡止水の状態、水面に何かが落ちてきたら、落ちてきたことに気がつけるような、穏やかな状態であり続けるということを指す。騒がしい水面には、何かが落ちてきても気がつくことができない。自分の心に気がつくために、心を落ち着けるということを意味している。

 というのは、智慧のことで、世の中のことを理解している、ということだ。クマバチを見かけても、大抵出かけているのはメスで、針を持っていないから刺さないと落ち着いている、このように、動揺しないための智慧を育むということだ。

 戒によって定を育み、定によって慧を育み、慧によって戒を育むといった相互関係があり、これらが実践の三つの支柱として考えられる。具体的には、悪い行為をせず、瞑想をして心を落ち着かせ、日常生活を取り巻くものをただ観察する、ということが原始仏教の実践だ。

 無常・苦・無我

 一方で、思想的な核は、無常・苦・無我にある。この世のものは無常であり、苦であり、無我である。その例外はないということを、原始仏教は言っている。

 無常という概念は分かりやすい。この世のものは、どのような性質のものであっても、一時的なものに過ぎず、明日になれば忘れてしまっているようなことに過ぎないのだから、何かが起こったとしても、いずれ無くなるのだ、ということを理解し、心を乱されないように、ということだ。「諸行無常」という言い方をすると、因果律の意味合いも入り込んでくる。この世のものは、原因と結果によって生まれ、ドミノ倒しのように、移り変わっていくものなのだと。単に「無常」と言っても、「諸行無常」と言っても、同じように、絶え間なく生まれては消えていく、ということについて言っているに他ならない。

 という概念は、一切皆苦、という言い方で理解することができる。誰もが憧れたり、欲しがったり、やりたがったりすることも、本質的には苦なのだということだ。例えば大谷翔平藤井聡太の大活躍をみて、あんなふうになりたいと思ったとする。でも彼らの生活は、毎日の必死なトレーニング、研究に支えられたもので、苦しみに満ちた大変なものでもある。もし上手く行かなかったら、という不安もあり、けして楽なものではない。良いと思われるものでも、本当は苦なのだ、ということを見ようということだ。苦というのは、苦痛というよりは、基本的には、倦怠感とか、しんどさ、労苦の辛さを表しているものだと、僕は解釈している。

 無我という概念も、難しいものではない。「私」というものは、「私のもの」と考えるものによって構成されているが、「私のもの」だと言えるようなものは、この世にはないということを意味している。例えば自分の持っている財布をみて、これは「私のもの」だと思っているかもしれない。でも、うっかり置き忘れてしまっただけで、それはなくなってしまい、私のものではなくなるような、危ういものだということがわかる。例えばホテルを予約して、出かけていったら、予約されていません、と受付で断られてしまうかもしれない。当然のように、「私のもの」だと思っていた権利は、容易に壊れてしまうものだ。それと同じように、この世のすべてのものは、「私のもの」だと思いこんでいるだけで、本当は、簡単に失われてしまう、ただ個別に存在するだけのものでしかない。そしてそれは権利や名前のような形のないものについても同じことなのだ。

 

 

 なぜこんなまとめをしたかというと、マルメロの陽光という映画についてぼーっと考えていたからだ。個人的に最も好きな映画に挙げられる作品なのだけど、この映画はまさに、無常・苦・無我について描いた映画にほかならないということにふと気がついた。

 一人の画家が、絵画を制作する作業を、無常・苦・無我に置き換えて観察していく。描き終える前にマルメロが朽ち落ちてしまう無常、一本一本線を描いていく苦、徹底した写実主義の現す無我。

 この”半”ドキュメンタリー映画を撮ったビクトル・エリセという映画監督は、「みつばちのささやき」「エル・スール」「マルメロの陽光」という、三本の長編映画を撮っただけで、実質的に引退してしまった。それでもこの三本があまりにすごいものだから、二十世紀を代表する映画監督をたった十人挙げたとしても、その中に含まれるくらいの映画監督だ。

 

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 午後11時頃家を出て、図書館に行った後、スーパーをひやかして帰ってきた。ポケットの中には150円しかはいっていない。

 普段は入り口近くの受付で、インターネットで予約した本を受け取ってそそくさと帰るのだが、気まぐれに覗いてみた図書館内部の貼り紙を見て、”NML”、ナクソス・ミュージック・ライブラリーというものの存在を知った。図書館利用者は二週間、主にクラシック音楽の膨大なライブラリのなかから自由に曲を聴くことができる。(もちろん、二週間が終わっても、また図書館にIDを受け取りにいけば、また二週間聴くことができるようになる。)音質はaac形式で320kbps。こんなサービスがあったのかとおどろいた。利用しない手はない。

 家に帰ってさっそく、試しに「チッコリーニ モーツァルト」と検索してみた。チッコリーニとは、僕が大好きなピアニストで、クラシック音楽を聴き始めた初期の頃からずっとファンである。まだ聴いたことのない録音がぞろぞろでてきて、嬉しくてたまらなかった。(ここからはつまらない作品評なので次の*まで読み飛ばしてください・・・)

 真っ先に聴いたのは「モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番(チッコリーニモンペリエ国立管/フォスター)」だったが、これはこれは正直に言って微妙だった。いつの録音か分からないが、音質は非常に良かった。オーケストラの演奏は、甘美で木管が良く鳴っていて伸びやかだという美点を持っていたが、古典派音楽の演奏として、緩慢すぎる気がした。チッコリーニの演奏は硬質で、その相対する取り合わせが悪い方に働いて、硬質な演奏特有の抑制された香りも、甘美な演奏特有の芳しい香りもないまま、お互いの良さを消し合っているように見えた。このような取り合わせの悪さは、ヴィヴィアナ・ソフロニツキーモーツァルトピアノ協奏曲全集を彷彿とさせた。ソフロニツキー盤のオーケストラの場合、古楽器特有の軽快なテンポ感なのに、どうも緩慢に感じられ、フォルテピアノの素晴らしく抑制された、ある意味で素朴、ある意味で格調高い演奏を受け止めるものとしては不足に感じられたのだった。それを踏まえてもモーツァルトピアノ協奏曲全集としては、ソフロニツキー盤はピリオドモダンの垣根を超えて、五本の指に入る。そのとき五本の指のうち人さし指、つまり第一等に位置するのは、バドゥラ=スコダ/プラハ室内管弦楽団の素晴らしく調和した、たおやかで優美で、いじらしい演奏に違いない。

 

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 図書館への行き帰りの二時間半の道のりで、”頭陀行”について考えていた。頭陀行とは、一日中歩いては托鉢をし、野外で坐って寝るという修行だ。もしこのような生活が――托鉢はできないのでコンビニで買うとして――可能なら、宿代も光熱費もかからず、一日数百円で暮らしていくことができる。そのような生活が現実に可能かどうか、夢を見るように思いを巡らせていた。

 

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 家に帰って、午後2時ごろからSpace Chemという名作パズルゲームをやっていたら、我を失って、午後8時までやってしまった。深く反省しなければいけない。そのあとレトルトカレーを食べ、今日借りてきた「日本近代史を学ぶための文語文入門」という本を読み始めた。日本近代史、と書いてあるが、聖書文語訳や明治初期の小説のような、一般の文語文を読むためのものとしても遜色なく使える。文語文特有の、読めそうなのに、いまいち意味が取れない理由が、文語文は漢文書き下し文として成立したからだ、という説明で腑に落ちた。日本語っぽい文章であるとはいえ、その言葉の意味は、漢文によるところが大きいというのだ。この本を明日の朝から昼にかけて読むのが楽しみになってきた。今日もこのまま読めるだけ読み続けて、午前0時までに寝ようとおもう。