tapanta

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精神医療における「焦らず、ゆっくり」とは何なのか

 賢さとは予測ができるということ、愚かさとは予測ができないということ、人間は未来を完全に予測することはできないから、愚かさを免れることはできない。

 

 

 父親が二年前から自分は鬱だと言い精神科に通い、仕事をやめ、いまだに鬱だと言い張っている。病気だから化学的に治すのだと言って薬を飲んでいる。何を飲んでいるつもりなのか?日本の精神医学のレベルの低さには普段から辟易としているが、それをこういう身近なところで感じるのが最もせつない。オウム真理教にハマっているのと何が違うのだろうか。

 "うつ病"は、焦らず、ゆっくり治しましょう、というのが、精神医療のスローガンのようになっている。時間がかかると言いたいのは分かるが、そもそも、ゆっくり、どこへ行けばいいと言うのだろう?どこへ行くのかわからないのに、あせらず、ゆっくり、というのは無理がある。行き先がわかっているからこそ、焦らないことができるのに、どうして行き先もわからず徘徊しているのに、あせらず、ゆっくり、などということができるのだろう?

 著名な、最も著名なと言って良いだろう催眠療法士であるミルトン・エリクソンの治療を、その弟子であるビル・オハンロンが消化して「可能性療法」という本を書き上げた。魔法とも喩えられるエリクソンの治療を見て、奇跡だ、などと感嘆する代わりに、この図太い弟子は、「エリクソンのやっていることは、催眠じゃなくてもできる」と書いたのだ。

 どう書いたのか?人は可能性があればなんとか生きていける、そして可能性はどこかに見つけ出すことができる、だから可能性を見つけようじゃないか、という素朴な三段論法を書いたのだ。そこにはあいまいさがない。つまり宗教が「教祖の神秘性」へ、また精神医学が「化学の神秘性」へ、追いやることで見せかけ上解決した病理を、なるだけ神秘性へ追いやらずに、つまりできる限り単純に捉える方法を見つけたのだ。

 バス停でバスを待っている人は、どうして急いでいるのに、きちんと列を乱さずに、忍耐強くバスの到着を待っているのだろう?その理由は、バスが到着するという未来を予測できているからだ。十分後にここにバスが来るという世界との約束、信頼があるから、十分間じっとして待つことができるのだ。

 言い換えれば、焦らず、ゆっくり、というのは信頼、あるいは予測の結果として、初めて生まれるものなのだ。精神医療では本来、そこに何らかの具体的な予測を持ち込むか、そうでなければ患者(あえて"クライアント"などとは言わないが)と治療者との信頼関係が「焦らず、ゆっくり」を表面的な言葉ではなく、患者の態度として実現しなければならないのだ。

 良い治療関係には、見せかけの治癒が起こる、ということを、精神分析学はたびたび指摘し、また、問題にしてきた。古典的な説明では、「被治療者(被分析者)が、治療者の期待に応えようとして、見せかけの治癒を分析関係へ持ち込む」というあまりに回りくどい言い方で解釈されるが、実際のところは、もっと単純に捉えられる。つまり、信頼関係という支えがある限り、患者は、「焦らず、ゆっくり」の状態になることができるのであり、「焦らず、ゆっくり」こそ、精神医療の目標となるところなのだから、患者が、治療関係に支えられることで、治癒したと感じるのは当たり前なのだ。

 実際のところ、その支えは、治療関係が終わってしまったら失われてしまうものだから、治療者は、今「信頼」によって実現している「焦らず、ゆっくり」を、被治療者自身が将来をある程度見通し、世界を信頼できるようになって実現する「焦らず、ゆっくり」へ置き換えるための努力(つまりそれこそが治療行為だ)を行わなければならない。この構造こそが、うつ病を、あるいはほかの心的問題を、「焦らず、ゆっくり」治そうという発想の根拠なのだ。

 だからこそ、患者が治療関係にありながら、いまだ不安におののいているというのは、実際のところ、何もかも間違っていると言うよりほかがない。そして現実に、精神科医が患者をこういう不安に彷徨っている状態に置きながら、これを飲めば治るなどとあいまいなことを言ってみだりに薬を処方しているのだ。本当にその薬を飲めば治るなら、どうして薬を受け取った患者はいまだ不安におののいているのだろう?それは、その薬を信頼できないし、その医者を心から信頼できないからなのだ。しかしほかに頼るものがないから、その医者に通い続け、薬を飲み続けるという方法を取るしかないのだ。だが医者を信頼しきれないから、身の回りの人間にも、自分は病気だから、優しくしてくれ、自分の病気を理解してくれ、と、おろおろしながら助けを求めるよりないのだ、これが日本の精神医療の現状だ。本当に、薬を飲んで寝ていれば治るなら、患者は薬を飲んで寝ていればいいのだ。そうならないのは、薬を飲んで寝ていても治らないからなのだ。

 その方法ではとうてい治らないのに、どの口が、「焦らず、ゆっくり」などと言っているんだろう?本当の「焦らず、ゆっくり」というのは、どうすれば治るか、患者に誠実に説明する術も具体的な策も持たずにただ投薬しているだけの医者に実現できるものではないのだ。