tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

からっぽ

 僕は日記をつけたいなあ、と長らく思いながら、ほとんどつけていない。そもそも金もないし、働いてもいないから、一日中家にいて、せいぜいYoutubeを見たり何かの勉強だの練習だのをしているだけだ。昔は考えることもよくあったから、内面的なことをひたすらかけていたけど、最近はあまり考えていないから、書くことがない。

 しかしこのブログをふいに読み返しながら、一時期毎日日記をつけていたのを思い出して、日記をつける日々への"あこがれ"を感じた。あこがれという言葉選びが正しいかはわからないが。

 昔書いた長い詩がある。長いと言っても8000文字だ。人に見せられない詩だ。だが、自分が今までに書いた詩のなかで、決定的に影響力を持っている詩だ。何度も破棄しようと思ってきたが、いまだに残っている詩だ。何度も部分的に引用してきた詩だ。その詩をこのブログでも引用していた。その一節をみて、なんだか妙な気分になった。

 わたしは自分のからっぽに幾つか意味があるような気がした。お祭りが終わったあとのさびしさみたいにからっぽな感じもあって、でもその時間を記憶しているわたしは充ちているような気もするから、それはからっぽのほんとうの意味じゃなかった。というよりも、からっぽは充ちているものなんじゃないかという気がしていた。生きているということが身体のなかにあるってことだと感じた。それでもわたしはわたしにとってからっぽだった。それは虚しいとか遠いとか悲しいということじゃなくて、昼に部屋が明るいとか宵に部屋が薄暗いとかいうことみたいにからっぽだった。カメラのレンズをとおすと世界がさかさまになるみたいだと思った。(自作詩・Parousiaより)

 自分のからっぽ、というテーマは、自分がここまで書いてきたようないくつかの試論によってやすやすと乗り越えられるものではない。ただ、そこには確かに、以前書いた通り、存在の無理由性という名前の、普段は抑圧されている心の底からの恐怖が確かにあるし、そこに心の底からの、希求がある。

 僕はよく「神」という単語を使う。それは何よりも先にあったものを想定して神と呼んでいるわけではない。心の底からの、本質的な恐怖にまつわる希求、その希求は、現実にあるものが対象となって受けられるようなものではない、そのときに、仮定的にでも、対象となるものをこしらえる必要がある。そして、それを究極的に純粋に希求しえたとき、そこに「神」の概念が、希求されるものとして、現れる。

 幻想というのは、その希求を、現実的なものへ向け、あれへ依存し、これへ依存しという形で彷徨い続ける水準にある。つまるところ、神への希求と言うのは、その水準の希求を乗り越えた希求を意味している。

 (ひとりきりはいつも

  ひとりきりになれないことで傷ついている)

 

    神様を信じるか問うよりずっと前に

    神様という言葉の中へ入っていくものがある

 

(自作詩「対岸」より)

 だが、神は、つまり、心の底からの希求は、からっぽ、ということから見れば、それすらも、二次的なものなのである。二次的に、希求が起こるけれど、からっぽ、というのは、一次的な、つまり、本質的な、「何か」だと思うのである。僕は、現実的な、生活的な水準へそらしてきたけれど、本当のところは、ここに、何か、いまだにつかみ損ねていない、本質的なものを抱えている。それは結局のところ、例えば「死を待つ心の準備などあるのか」という問いに対して、それが「ある」ということ、つまり、「死を受け入れる」という水準が、あり得るのだ、と言うことなのだと思う。

わたしがわたしの中でたくさん語っていることだけが人生を送るってことなんじゃないかって。それでもわたしが語るということはわたしだけで完結するものじゃなくて、わたしは語ることでなにかに呼びかけているというような気がする。だから心の中で喋り続けたり独り言したりすることはなんだか虚しくて実体がないって気分になるんじゃないかって。誰かに語ったり君に語ったりすることが優しいのはそれが語るってことの本質だからだっていう気がする。

(自作詩・Parousiaより)