tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

心よりのどうでもよさ

 しばらくの間、深い考え事をしていない。なんとなく、あれもこれも、どうでもよい、という気分になっている。そのあたりのことを、しかし書いておかなければいけないと思うので、音楽でも聴きながらぼんやり書いてみる。

 二年前にこのブログで取り上げた、無常・苦・無我という原始仏教の概念がある。素晴らしい概念だと思う。これらの概念は極めてストイックだけれども、僕はそのストイックさを否定したくなっていった。実践というものが強いる緊張は不自然で、そこには引っ張る力となる何らかの動機が必要になるはず、言い換えれば、仏陀というのは相当に自分を引っ張って、不自然に強いていると思う。そこに真実めいたものが関係していたとしても、それ自体が自然だとは、僕は、到底思わない。

 この概念をより自然に言い直すなら、「変化・苦・どうでもよい」だと思う。この「どうでもよい」を、なかなか熟語にできない。些事、というのとも違う。心からの、どうでもよさ、しょうもなさ、というのがある。無我というのは、この二字熟語の意味の取りうる範囲の広さに応じていくらでも誤解されうる。その誤解の可能性というやつが、概念の深さだと勘違いされるが、概念は複雑になりえど深くなどなりようがない。深さと呼ばれているものは大概あいまいさでしかない。

 わが子を亡くして泣いている母親に対し、泣いていても無駄だからさっさとあきらめろと言い放ったというエピソードが示すような、「心よりのどうでもよさ」ということこそ、「無我」という二次が本来示すべきであったものだと僕は思う。というよりも、「我」というものは何なのかというと、「何かをどうでもよくないと思うこと」であり、それが無いということが、無我なのだと言った方が腑が落ちるかもしれない。

 無常というのは、この世は変化していくものという自然の描写にほかならず、それ以外の意味はないし、苦は苦、しんどさである。「どうでもよい」に寄せるなら、この世の真理と言うのは、「すべてのものはうつりかわっていく、しんどい、どうでもよい」である。これが真理である。

 だが、それらが概念としてこうであるという事実と、口に出して、「しんどい、どうでもいい」と言うのとは違う。人間が「どうでもいい」と口に出すときというのは多くの場合、「どうでもよくない」を意味するからである。そうでなく、人が泣き言を言ってきたときのしんどさを思い浮かべてほしい、そのとき心の底から吐き捨てる「どうでもいい」、この言葉が、真理の、どうでもいいである。つまりこの世の出来事は心底「どうでもいい」のである。

 しんどい、どうでもいい、などと口にするものは、このことを理解していないのである。この世はしんどい、どうでもいい、というのは当たり前なのだ、それはこの世の本質なのだ。それをわざわざ口にするということは、その本質を理解していないのだ。

 こういった概念が触れないものとして、例えば孤独があるが、孤独と言うのは、根源的な誤りに端を発しているのであって、要するに「孤独でない状態などない」状態への信仰こそが孤独の原因であり、孤独などというものは、元来存在しない。