tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

瞑想の方法

 今、瞑想というとアメリカ発祥の「マインドフルネス瞑想」が一時的流行りの域を超えて、主流になっているようである。発祥については諸説、というより諸派あり、さらに問題なことに、具体的な方法論についても人それぞれで要領を得ない。もはや、ただ「瞑想」と言うのと、「マインドフルネス瞑想」と言うことにはさして違いがないようにさえ見える。

 しかしながら、古くより「サマタ瞑想」、「ヴィパッサナー瞑想」の二種類が基準として存在している。集中することで意識を深めるサマタ、あるがままに見るヴィパッサナーは、別種のものとして確立されており、その基準に準拠するのが良いように見える。

 サマタとは、呼吸や具体的な対象物に意識を集中しているトランス的な状態のことを指す。一つのものに集中することで、それ以外の思考を切り離す、プラクティカルで分かりやすい方法であると言える。

 一方、ヴィパッサナーは「観」、ありのままに見る、を意味しているが、自分の状態を心の中で実況中継することで、今と言う瞬間に集中するんだとか、ボディスキャンをするんだとか、思考してはいけないだとか、いろいろなスタイルがあって、その方法については共通見解がない。

 ただしここで言えるのは、何かに集中する状態を根拠にするならば、その瞑想はサマタと呼ぶべきであり、ヴィパッサナーがそれそのものとして確立するためには、集中状態には依らない瞑想である必要がある。ひとつのことに集中することでそれ以外の厄介ごとから避難するのがサマタ瞑想なのであれば、集中という方法に頼らずに、自分を救おうというのがヴィパッサナー瞑想だと言える。

 ここに、僕はヴィパッサナー瞑想の特権性を主張する。というのも、集中力によってそれ以外のものを遠ざけるという発想自体は、パチンコや酒によって悩みを追い出そうとするのと大差がないからだ。集中状態という一種の現実逃避、それに依らずに、現代的に言えばChill Outできるという発想に、これら瞑想というものがそれ以外ので日常的行為と一線を画して持つ本質的な独自性、つまり特権性があると考える。

 ヴィパッサナーという概念が標榜する、「ありのままに見る」というのは、執着を捨てて見ることを意味している。執着を捨てて見るというのは、願望を捨てて見るということを意味している。サマタ瞑想においては、集中という糸がひとたび切れればまた混沌の中へ放り出されるがために、集中の持続時間をできる限り引き延ばすという「訓練」の方向へ、意識が必然的に移行するが、ヴィパッサナーの発想の場合は、願望を捨てうるという価値観や、捨ててみたときにどのように世界が見えるか、という体験価値の方向へ移行する。ゆえにヴィパッサナーの世界に、本来訓練や修練の方向性は存在しない。

 ヴィパッサナー瞑想では、それを行っている間、あらゆる望みを捨てる。望みを捨てると、この世のものが、あるがままの姿で現れるようになる。「感動したい」願望を捨てるならば、桜が散るのをみても美しいとは思わない。「痛い思いをしたくない」願望を捨てるならば、スズメバチが来ても怖いとは思わない。「静かになりたい」願望を捨てるならば、上の階の子どもがドタドタ走り回っていても、「ドタドタ走り回っているなあ」と思うだけだ。「誰かと一緒にいたい」願望を捨てるならば、愛するわが子が死んだとしても、「わが子が死んだなあ」で終わりである。そこには悲しみもなければ、喜びもない。楽しみもなければ、苦しみもない。だから、何にもとらわれることがない。それが、ヴィパッサナー瞑想というものだ。

 少なくとも、ただ、座っている間だけは、願望から自分を切り離し、そしてそれらの感情から自分を切り離す。座るのをやめたときにまた、喜びや悲しみや苦しみや楽しみの中に入っていくことになるとしても。