tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

疎外が残っている

   Τέλος

 僕はじわりじわりとにじりよるそれの影に気がついている。生、それは希望をもはや残さないということ。「現在の窮地から抜け出す術はないと言わざるを得ません。」[1]「私はそれについて知りたくない」[2]「思出の片隅でじっとしていればよいのに」[3]「とりかえしのつかぬ過失を」[4]

  昔書いた「思想とはなにか」という自分の文章から次の通り引用する。

「言語が主体の他者性を断言するとき、主体は遡行的に他者へ主体性を認める。そこには他者として現れる一群があり、主体は理由なしに『純粋に他者であること』から疎外されている。虐待がもたらす心的外傷は、もともと言語的に生じていた疎外感の延長線上にあるものだ。主体が他者による承認を要求するのは、元来疎外に苛まれた存在だからである。他者関係とは主体が他者であるという言語的示唆が、それへの参入可能性を示唆している関係のことである。他者関係のうち二者関係は本質的に主体の疎外を象徴するところの関係であり、言い換えれば、漠然と主体を疎外していた他者性というものが、実際的に主体を疎外して成立する関係像として現象するものである。」

「性化は性関係によって二者関係における彼が取りうる位置を示唆する。性関係が「汚れ」と呼ばれるのは届かないはずのそれに容易に届いている姿を主体は他者の性関係に見るからだ。だからそれは衝撃的だ。他者の性関係という象徴において主体が出会うのは異性ではなく、同性の「真実の姿」である。(敢えていうが、「真実の姿」は比喩である。)異性はそこで出会う水準を最初から離れられないが、同性はそこで異化されて姿をあらわす。つまりそれまで抑圧されていた性的同性というものが、そこで姿をあらわすのである。だからバイセクシャルホモセクシャルを、この衝撃からの防衛と見なすこともひとまずは可能なのである。」

 僕が引用した文章は、僕の不安の在処を示したものである。僕は最初に、希望をもはや残っていないと言ったがそれは嘘である。疎外が残っている。今日から何週間かかけて、これで最後になる三冊目を書くのである。つまり「自己充足」というロマンスの究極点をそこから引きずり降ろし現実のものとするために。

 

[1]『ラカン 患者との対話』ジャック・ラカン
[2]『アンコール』ジャック・ラカン
[3]『落葉樹の思考』鮎川信夫
[4]『世界は誰のものか』鮎川信夫