tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

脱ニートへの道が(ふたたび)はじまった

 昨日の夜は明らかにおかしかった。睡眠不足から来る妙な万能感と性急さに支配された夜だった。とはいえ、ある種の躁状態は、行動を起こすのに必須ではあろうと思うのだが。羞恥エクスポージャー、元来が引っ込み思案すぎる・・・。

 今朝は午前六時に起きた。午前中は将来について考えていた。ウェブデザイナーという進路について考え、調べ、読んだりしていた。時間が過ぎるのはあっという間で、それだけで気づけば午後4時になっていて驚いた。(午後3時に25分ほど昼寝をしてしまった。猫の添い寝をしていたせい。夜の睡眠に響かなければいいが。)夜に、バイト応募先から電話がかかってきた。来週面接をしてくれるようだ。家から片道40分くらいで、ちょうどいい。でもやっぱりまだ、電話で緊張する癖がぬけない。

 

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 午後4時頃からアチャン・チャーの『無常の教え』を読んだ。実践についての教えで、特に優れた部分を見つけたので、紹介したい。少し長い引用になるが、

 瞑想実践によって心が静寂になったとき、私たちは喜びます、もし、その心の平安が数日間持続するものだったら、私たちは本当に楽しい気分になるでしょう。そうしてある日突然、私たちの瞑想は、噛みつき蟻の巣に座ってでもいるかのような、ひどい状態になってしまうのです。私たちは、もはや座り続けることはできず、どうすることもできずに心は荒れ狂い、乱れます。そこで、私たちはどうすれば以前のような瞑想状態に戻れるのか、考え込むことになります。……ここは、私たちが惑わされがちなポイントです。私たちの心の状態というものは、変化するものです。心とは、静止した、確かな、安定したものではありません。心とは、一所に留まらず、常に変化し続けるものです。……もし、あなたの心が静寂になっても、それに酔わないようにしてください。反対に、もしあなたの心が散乱していても、それに酔わないようにしてください。……ブッダは、サマタ瞑想のみを実践する場合、そこに智慧は生じないと説きました。……静かな環境から出て、視覚や音といった刺激に接触するとき、私たちは再びこれらの刺激に悩まされることになりかねません。……ブッダは私たちに、完全に孤立した環境に暮らすことなく、これらの刺激をきちんと経験することを求めたのです。……そうすることによって、私たちは智慧を得ることができるのです。そうすれば、例え座る瞑想や歩く瞑想をしていないときでも、私たちは何も失ったり、堕落をしたりすることなしに、心は静まり、気づきのある、正しい状態で精力的に修行を続けることができるのです。(p.275-278)

  あるときは心が静まり、それに満足し、瞑想のおかげだ、正しい考え方のおかげだ、と喜んでいる。しかし、翌日になると不意に空模様が怪しくなり、心が沈み、動揺してしまう。このような浮き沈みは、実践していれば必ず経験することだ。しかし、多くの指導者はこのようなことを語らない。それに、このような語り方は、僕がそうであるように、必ずしも仏道を選ばせない。なぜなら、この考え方はより普遍的な処世術の範疇にあり、世俗の生き方を否定するものではないからだ。静寂を知り、それを普遍的なものにしたい(解脱したい)と強いて願わないなら、仏教的な徹底さは必ずしも必要にはならない。仏道を選ぶためには、まずはサマーディを得て、より深い静寂の素晴らしさを知り、それに依拠する気にならないといけないのだが、それでも、結局還俗し、”それなりに”上手く行きていく道を選ぶ人も多い。